反語表現の難しさと考えるということ

本題は違うことだったのだが、紹介されたあるブログの中で、作家の森博嗣氏がかつて、反語が通じないということについて森氏のブログにエントリーされていたこと、その内容が書かれていた。
森氏やこのブログを書いている方同様、反語って通じにくくなってるなと私自身も感じている。
それならば、反語でなくて紋切り型で言えばいいのだが、そうしないのには理由がある。
まずひとつは、反語を使うことにより聞いた時の強烈さを和らげるということである。
例えば、提出されたレポートの出来栄えが悪かったとする。
その時に、このレポートは出来は悪い、やり直し!というと、このレポートは上手に書けたと思ってる?というのとでは、受けた方の印象が違うため、人間関係を維持するには必要な時がある。
もうひとつは、反語を使う方が否がおうでも考えるということを与えられる。
同じくレポートを例に出すと、レポートを書くにあたって必要な項目が、
実験テーマ、使用した試料・試薬、使用器具、実験方法、実験結果、考察 だったとする。
そして、提出されたレポートに使用器具がぬけていたとする。
この時に、使用器具がぬけているから、つけ加えて出しなさいというのは簡単である。
しかし、当の本人はぬけている事を“指摘されて”書いて出した終了。
これでは、次に書く時に、前回実験器具が抜けていたから書く時気をつけなくちゃと腹におちない。
なぜならば、自分の頭で何が抜けているか考えていないからである。
これを反語で、これ、もれなく全部書けてるの?と聞けば、
どこがぬけているか、自分の頭で必死に考える。
考えて、ここが抜けている~とわかると自ら抜けている部分を書きくわえることができる。
そういう場合は、本人の腹におちて次から同じ間違いをする蓋然性は明らかに低い。

はっきり、ここが抜けているから書きくわえなさいという方が、目の前の時間は短縮できるかもしれない。
本人に考えさせるのって想像以上に時間がかかるから。
でも、その目の前の時間を気にすることなく、相手がいかに成長することができるかを考えるのが教育であり、考える時間を与える、そして自分自身をその時間を共有する。
それが愛情だと思う。